日本の離島、その歴史を探る

自然豊かな隠岐島

自然豊かな隠岐島

神話上で、3番目に誕生した島

淡路島のことも大変興味深いところだが、第八島も生み出しているのでそれ以外の島についても少しばかり話をしていこう。次に紹介するのは日本神話・国産みの儀式において3番目に誕生し、その後歴史でも国としてその存在を確固たる物としていた『隠岐島』について話をしていこう。

一般には『隠岐諸島』とも呼ばれるこちらの島は、現在は島根県の隠岐郡に所属しているが、かつては律令制国として存在を固辞していたことが知られている。本州から少し離れているためあまり印象は無いかもしれない、それもそうだろう。現在の隠岐諸島では過疎化が進行しており、かつて栄華を築き上げていた姿ははっきり言ってしまうとどこにもないからだ。そういうと何処か名残惜しいところでもあるが、そこで感慨にふけっている場合では無いだろう。ただ本州から離れていることもあって、島全体は鬱そうとした自然に囲まれており、人が住むための場所というよりは現在では『観光名所』として訪れている人の方が多いだろう。

また一重に隠岐諸島といっても簡単に分類できるものではなく、大まかにまとめると『島前』・『島後』といったように分けることが出来る。主にどんな島が区別されているのかというと、

・島前
知夫里島・中ノ島・西ノ島
・島後
隠岐の島町を初めとした一島

といったように構成されている。隠岐諸島という言葉で表現すると主にこの4つの島が中心勢力となっているわけだが、付近には隠岐諸島に属している小島はなんと数えて180もあるという。それらすべてに人が住んでいるわけでは無いが、主に人が住んでいるところが島後の隠岐の島町だ。人が住んでいることもあってこの島の全長は約242km2となっており、日本の中では徳之島に次いで15番目の面積を持っている。

そんな隠岐諸島と呼ばれた場所も、かつては国として『隠岐国』と呼ばれていたが、その歴史から何を垣間見ることが出来るのか、まずはそこから触れていこう。

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隠岐国としての歴史

隠岐諸島と呼ばれているだけあって、日本本州から離れているため、必然的に本土との連絡は船を用いてする他無かった。そのため本来なら朝廷などに統治されているはずだったが、古代期から島内で独自に活動できるだけの自立した気質が強く、1つの国として確かな結束力が強かったことを知ることが出来る。何も本州との連絡が無かったわけではなく、大化の改新が行われた8世紀頃には木簡にて『隠岐国』という表記が為されていることが確認されている。このことから、非常に古い歴史を持っていることが分かる。

それもそう、この島に人が居住地として利用するようになったことが確認されているのは少なく見積もっても弥生時代には人の文化跡を垣間見ることが出来る。また隠岐の中だけでも古墳の数は約200基も存在しており、大きいものでは全長47mにもなる前方後円墳が存在していることから、この隠岐国が確かに古代期から人の営みが行われていた事の証拠だ。

朝鮮半島との緊張に曝される

隠岐諸島があるのは島根県の北方50kmにあるが、この地域では古代から日本と熾烈な戦いを繰り広げていた新羅などとの争いに巻き込まれることになる。無論争いばかりでは無いが、中には通商としての交流もあり、時には船が難破した渤海の日本使節団が隠岐諸島に漂着することもあった。

ただそれも日本との関係が良好の時だけであって、特に中世に指しかかろうとしている時期に新羅との関係が緊張すると同時に、本土から弓の軍事教官である弩師が置かれ、新羅からの進行に対して防御、ならびに警備を整えなければならない等の世情に巻き込まれることとなる。

中世から近世にかけて

隠岐諸島の歴史を垣間見るとその中で特徴的ともいえるのが、この諸島に『後鳥羽上皇』と『後醍醐天皇』が配流されてくるなど、かつて天皇としてその絶対的なまでの地位を手に入れた2人の人間が流されることとなる。後醍醐天皇がその後自力で脱出するなどの動きを見せており、宮廷暮らしをしていた人間にしてみればこういった島での暮らしは耐えられなかったというところか。

その後室町時代には毛利氏一門の吉川元春の実質的な支配を受けて存在しており、その後の戦乱の世において翻弄されることとなる。

そんな隠岐諸島も江戸幕府頃になると、北前船の風待ち、補給港として隆盛を図ることに成功する。これは能登から下関、または博多への直行する沖乗りコースを確保したため港町として栄えることに成功できた。それをきっかけに隠岐は貴重な物資を運搬するために利用される重要な拠点として活用されることとなる。

寝台列車で行こう

隠岐騒動とは

隠岐諸島に問題があるとするなら島国ならではの食糧難だった。それを解消してもらいたいとする島民からの申し出にも満足に答えられない、当時隠岐を統治していた松江藩に対して島民達から憤まんが溢れていく。その後、日本に黒船の来襲なども相まって、隠岐国にも防御体制が取られることになるが、仮にも隠岐諸島を代表する一人だった『枝元喜左衛門』が、西郷港に入港した船に立ち会った際には帯刀を船内に置き忘れるという、ありえない失態を化してしまう。これにより島民達の藩への不満が限界を超えることとなり、信頼は失墜していってしまう。こうした経緯をもってして、史実で語られる『隠岐騒動』が勃発することとなる。

やがて大政奉還、王政復古が行われたことが確認されると、様々な経緯をもってして島を管理していた管理者達は島民達からの叛逆にあって島から追放され、その後島民たちによる自治が行われるようになる。その後自治を奪回されたり、自分達の自治を認めてほしいという声に対しては思うような解答が出ないまま時間だけが過ぎていき、やがて明治元年には鳥取藩の管理下に置かれることが確定し、それをきっかけに隠岐の騒動はようやくに終結を見ることになる。

おそらく自分達の島は自分たちで守る、その意気込みを見せたかったのかもしれないが、それをかなえるためには本州そのものを敵に回すのはあまりにも分が悪かったということだ。

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